2012/06/24

永遠に残るコミュニケーション。

ネットの中ではSNSや提示版のように多くのものが文章だ。動画や音声などもあるが、情報を仕入れるとき一番は早く端的なものは文章になってしまう。

言語学にとって言語の目的とはメッセージを伝えることだと、黒田龍之助さんの「はじめての言語学」という本に書いてあった。


その本の中でコミュニケーションとは、

・会話

・ボディー・ランゲージ・ジェスチャー。

・大きな声による威嚇。

・表情、雰囲気。

・握手やハグなどの身体的なもの。

・間の取り方、距離。

・服装、装飾品

など、中には体臭や肌の色、照明や温度まで関係があると考える人もいる。つまり、意図的、非意図的なものまで相手に伝わってしまうということ。

本の中ではどこまでが言語であるのかという部分を追求し、言語は記号の体系だと定義付ける。何かを指し示すために使われている記号と、それら記号が全体としてまとまった働きをするものとして。




はじめての言語学 (講談社現代新書)
黒田 龍之助
4061497014





ネットの世界ではどうだろう。実際にあったことがなければSNSなどその人の公開している情報で判断しなければならない。

・会話の組み立て方。引用の仕方。文章構成

・性別、年齢、趣味、仕事、家族構成

・写真やアイコン。

・SNS上での付き合い方。

など、言葉以外で基準としては比較的少ないものから判断しないといけないし、現実とは違う部分がクローズアップされ見え方が変わってくる。

これはリアルに更新している時もそうだし、10年のスパンで見ても同じ事になる。一度ネットに上がったものは残り続けるんだから、話題や表現方法が古いということ以外は。


で、ここから本題。コミュニケーションとは相手にメッセージを送ること、つまり相手に影響をあたえるために使われている言語というものが、永遠に残るということに人は耐えられるのだろうかということ。

その場だけだと思って、嘘・大げさ・まぎらわしい表現を使いながら他人に影響を与えようとしてしまう人の見栄っぱりな心理もあったり。

残すべき歴史や、当時を伝えるニュースなど残しておくべき文章はたくさんある。しかし、その場の雰囲気で書いていることが公開されて永遠に残るということは、間違いを指摘されないように行儀よく生きて行かないといけないという戦略を強いられてしまうような気がする。

所詮、Twitterのようにその場限りのものだから問題無いと考えることもできるが、ファンであれば全てを知りたいと思う人がいるように、公開されている情報、検索できる情報はすべて知りたいと思う人もいる。

ストーカーのように検索している自分の行動も自覚している。でも、情報を欲しいと思っている僕達は、リアルと同じように公開されている情報のすべてから感じ取ろうと検索してしまう。


そんな不安もよぎりながら、今日もTwitter、Facebook、Google+、ブログに書き込んでしまうフミなのであった、いずれ広大なネットの渦に埋もれていくことを期待しながら。

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